Property:手がかり

提供: 北海道旧土人保護部落戸口表(明治5年)コタンの研究
2026年5月10日 (日) 08:09時点におけるコタンコロクル (トーク | 投稿記録)による版 (SMWプロパティをText型として定義)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内、検索
(前の20件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示
このプロパティを使用している 20 件のページを表示しています。
コ
石狩川河口付近の左岸(西側)にある市街地エリアを総称して「左岸市街地」と呼ぶ習慣があったらしい。石狩市本町地区か?  +
烏柵舞(うしょくまい)の誤植か?  +
根志越(ねしこし)の誤植か?  +
太櫓村(ふとろむら)はかつて北海道檜山地方に存在し、瀬棚郡東瀬棚町と合併して北檜山町となった。「山越」または「山越郡」は、檜山地方の地形的な地名として古くから使用されていたが、地名(旧字名)としての記録は見当たらず。  +
* 土人の戸数 ** 文政5年(1822年)頃 89戸 564人 ** 明治5年(1872年) 35戸 288人 ** 明治10年(1877年)~明治14年(1881年) 50戸前後 * 明治5年(1872年)~明治6年(1873年)市街地のアイヌを市街地外へ強制移住させている   +
* バス停「浜藻琴」周辺 * 網走郡 各村の戸数(明治6年(1873年)) ** 能取(のとろ)6戸18人 ** 最寄(もよろ)7戸23人 ** 網走(あばしり)25戸81人 ** 勇仁(いさに)2戸3人 ** 新栗履(にくりばけ)5戸23人 ** 藻琴(もこと)6戸16人 ** 娜寄(なよろ)5戸15人 ** 濤沸(とうふつ)7戸28人 * 明治35年(1902年)新栗履村・藻琴村・娜寄村・涛沸村を藻琴村とし、旧町村名は大字として残している。 北海道殖民地区画図 藻琴原野(明治31年(1898年)) [[ファイル:Ainu_map_mokoto.png]]   +
* 明治24年(1891年)、美幌外五ヶ村戸長役場の戸長であった鹿児島県出身の野崎政長が、6ヶ村に散在するアイヌ民族を役場周辺で暮らすよう諭し集住させた。 * 役場周辺のコタンとは別に後に野崎と呼ばれる地区に給与地があった。 * 明治45年(1912年)5月、山火事によりアイヌコタン20戸余りが罹災し給与地に移転している。 * 美幌外五ヶ村戸長役場やコタンは、閉館した美幌ユースホテルのある丘にあった。 * 網尻郡 各村の戸数(明治6年(1873年)) ** 美幌(びほろ)4戸22人 ** 杵端辺(けねたんべ)2戸6人 ** 古梅(ふるうめ)3戸16人 ** 活汲(かつくみ)3戸14人 ** 達媚(たつこぶ)5戸32人 ** 翻木禽(ぽんききん)1戸8人 北海道殖民地区画図 美幌原野(明治38年(1905年)) [[ファイル:Ainu_map_bihoro.png]]   +
* チミケップ・コタン * チミケップ川とケミチャップ川と合流する場所の北側。 * ポンキキン(翻木禽:現在の網走郡津別町本岐)コタンの北側。 * 明治2年生まれの美幌コタンのアイヌが住んでいた。   +
* 東朱内は、東朱円の誤記。 * 朱円の東側。東朱円は、峰浜(みねはま)に地名変更されている。 * 朱円は、読みが「しゅえん」に変わり、朱円・朱円西・朱円東に地区分割されている。 * 土人保護地(給与地)は、羅萠(らむい)であったが、ドロの木が売れて金になるので、ドロの木がある東朱円を希望した。 * 斜里郡 各村の戸数(明治10年(1877年)) ** 斜里(しゃり)38戸150人 ** 朱円(しゅまとかり)2戸9人 ** 遠音別(おんねべつ)7戸27人 ** 止別(やんべつ)5戸24人 ** 蒼瑁(そうまおい)2戸7人 北海道殖民地区画図 アッカンペツ((明治38年(1905年)) [[ファイル:Ainu_map_higashi-shumatokari.png]] 北海道北見國斜里郡殖民區画地圖 ((大正3年(1914年)) [[ファイル:Ainu_map_higashi-shumatokari_2.png]]   +
* 札弦(さっつる)市街、札弦川沿い(緑・清泉・青葉の辺り)にアイヌが住んでいたようである。 * 文化年間のころ神威九線の斜里川流域にアイヌ数戸が来往し生活を営んだ。 * 番屋は斜里川と札弦川の合流から六キロほど隔った付近にあったと推測。 * 文政年間からアイヌ10戸ほどが神威九線20号の斜里川流域に居住。 * 札弦川の川べりにアイヌ人が住んでいた。   +
ここにコタンがあったとする旧跡がある一方で、アイヌのコタンだった場所なので地名が古丹となったのが由来とされる別の場所もある。  +
* 大正2年(1913年)、日高(ひだか)から留辺蘂(るべしべ)に移住した夫婦。 * 昭和10年(1935年)に帰郷している。   +
* 明治29年(1896年)上置戸に5戸の小屋があったと言い伝えあり。 * この5戸のコタンは常呂(ところ)川と仁居常呂(にいところ)川の合流地点で現在の置戸町勝山(かつやま)市街地周辺と思われる。 * 明治31年(1898年)日高アイヌが置戸に移住するまでの間、置戸に定住者の記録が無い。   +
* 川口西はサロマベツ川の河道改修で分断された川口という地の西側。 * 鐺沸(とうふつ)村の戸口は以下。 ** 明治4年(1871年)6戸25人 ** 明治6年(1873年)7戸28人 ** 明治12年(1879年)8戸31人   +
* 當呂は、常呂の誤記。 * 松浦武四郎の地図では常呂川の河口両岸にコタンが描かれている。 * 明治5年当時はアイヌ十数戸あった。   +
*「中湧別神社」周辺 * 中湧別はコタン(古丹)と呼ばれていた。 * 徳弘正輝の所有地を中心に川のほとりにアイヌ小屋が点在。 * 中湧別原野 6部落(戸数19、人口約50)内訳 ** イカンベツ 1戸 開盛橋下流山手付近 ** サクベツ 5戸 *** 1戸 元中隊本部裏小川付近 *** 4戸 16号線湧別河沿 ** ヌッポコマナイ 6戸 中湧別市街元藤倉蔵給与地内小川付近 ** ナオザネ 3戸 徳弘正輝所有地西隣 ** ポンケナシ 1戸 中湧別鉄道橋付近川沿 ** マクンベツ 3戸 6号線奥川沿 * 大正7年(1918年)末「ナオザネ」の3戸4人以外は、アイヌが住んでいた形跡はほぼ消えてなくなっている。 北海道殖民地区画図 湧別原野(明治32年(1899年)) [[ファイル:Ainu_map_naka-yubetsu.png]]   +
* 「カニの爪のオブジェ」周辺 * 紋別郡 各村の戸数(明治7年(1874年)) ** 紋別(もんべつ)31戸128人 ** 藻鼈(もべつ)7戸26人 ** 渚滑(しょこつ)13戸58人 ** 沙留(さるる)6戸21人 ** 瑠橡(るとち)1戸3人 ** 興部(おこっぺ)1戸6人 ** 沢木(さわき)5戸18人 ** 幌内(ほろない)5戸23人 ** 雄武(おうむ)1戸2人 ** 湧別(ゆうべつ)20戸82人 北海道殖民地区画図 モベツ原野(明治31年(1898年)) [[ファイル:Ainu_map_mobetsu.png]]   +
* 渚滑(しょこつ)川と渚滑古川と渚滑コタン川の合流地点の近く。 * 渚滑町3丁目の二線橋がかかっている通りが二線。 北海道殖民地区画図 渚滑原野之内(明治34年(1901年)) [[ファイル:Ainu_map_shokotsu.png]]   +
* 明治32年(1899年)~明治33年(1900年)頃、留萌(るもい)アイヌが滝上(たきのうえ)の元町に移住するまで、滝上に定住者の記録が無い。 * オラシネップの沢(現在の滝上町濁川みどり町の周辺)にも4戸アイヌが住んでいたが、この内の一部が中札久留の盤の沢に移っている。 * 昭和16年(1941年)中札久留は北札久留と南札久留に分割している。   +
* 幌内川西岸オロカムイチャシコツ下流に旧土人保護地(給与地)が設けられた。 * 昭和16年(1941年)6月7日、幌内川発電ダムの決壊で被災しコタンの人々は各地に四散してしまった。   +