Property:手がかり
提供: 北海道旧土人保護部落戸口表(明治5年)コタンの研究
コ
* 「カニの爪のオブジェ」周辺
* 紋別郡 各村の戸数(明治7年(1874年))
** 紋別(もんべつ)31戸128人
** 藻鼈(もべつ)7戸26人
** 渚滑(しょこつ)13戸58人
** 沙留(さるる)6戸21人
** 瑠橡(るとち)1戸3人
** 興部(おこっぺ)1戸6人
** 沢木(さわき)5戸18人
** 幌内(ほろない)5戸23人
** 雄武(おうむ)1戸2人
** 湧別(ゆうべつ)20戸82人
北海道殖民地区画図 モベツ原野(明治31年(1898年))
[[ファイル:Ainu_map_mobetsu.png]]
+
* コタンは庶路川の太平洋岸川口にあった。
* 明治32年(1899年)旧土人保護法により、太平洋岸から10㎞程上流にある泊別(とまりべつ)の大野農場の南側に隣接する給与地に20戸程のアイヌが強制移住させられる。
* 元秩父困民党大隊長の飯塚森蔵は給与地外の大野農場側の庶路川べりに潜伏していた。
+
* チミケップ・コタン
* チミケップ川とケミチャップ川と合流する場所の北側。
* ポンキキン(翻木禽:現在の網走郡津別町本岐)コタンの北側。
* 明治2年生まれの美幌コタンのアイヌが住んでいた。
+
* バス停「浜藻琴」周辺
* 網走郡 各村の戸数(明治6年(1873年))
** 能取(のとろ)6戸18人
** 最寄(もよろ)7戸23人
** 網走(あばしり)25戸81人
** 勇仁(いさに)2戸3人
** 新栗履(にくりばけ)5戸23人
** 藻琴(もこと)6戸16人
** 娜寄(なよろ)5戸15人
** 濤沸(とうふつ)7戸28人
* 明治35年(1902年)新栗履村・藻琴村・娜寄村・涛沸村を藻琴村とし、旧町村名は大字として残している。
北海道殖民地区画図 藻琴原野(明治31年(1898年))
[[ファイル:Ainu_map_mokoto.png]]
+
* バチラー夫妻記念教会堂
* 有珠(うす)コタンの中央の丘に建っていた
* 児童は、有珠第二小学校に通学
* 明治36年(1903年)設立、大正10年(1921年)3月閉校、有珠第一小学校に統合
+
* 土人の戸数
** 文政5年(1822年)頃 89戸 564人
** 明治5年(1872年) 35戸 288人
** 明治10年(1877年)~明治14年(1881年) 50戸前後
* 明治5年(1872年)~明治6年(1873年)市街地のアイヌを市街地外へ強制移住させている
+
* 大正12年(1923年)、下記の国後(くなしり)郡の4ヶ村が合併し、泊(とまり)村が誕生。
** 泊(とまり)
** 東沸(とうふつ)
** 秩苅別(ちぷかりべつ)
** 米戸賀(べとが)
* 秩苅別川河口左岸に遺跡があった。
+
* 屈斜路コタンアイヌ民族資料館
* 屈斜路湖南岸や弟子屈(てしかが)にコタンがあったが、御料農地となった為に強制移住させられた。
北海道殖民地区画図 ビルワ原野(大正2年(1913年))
[[ファイル:Ainu_map_kussharo.png]]
屈斜路コタン
[[ファイル:Ainu_map_kussharo_2.png]]
+
* 川口西はサロマベツ川の河道改修で分断された川口という地の西側。
* 鐺沸(とうふつ)村の戸口は以下。
** 明治4年(1871年)6戸25人
** 明治6年(1873年)7戸28人
** 明治12年(1879年)8戸31人
+
* 幌内川西岸オロカムイチャシコツ下流に旧土人保護地(給与地)が設けられた。
* 昭和16年(1941年)6月7日、幌内川発電ダムの決壊で被災しコタンの人々は各地に四散してしまった。
+
* 愛牛コタン旧墓地
* 1934年(昭和9年)10月下旬、北海道帝国大学(現・北海道大学)の児玉作左衛門教授らによって、愛牛コタンの墓地が一方的に暴かれ、多くのアイヌ遺骨を持ち去る。
+
* 明治16年(1883年)根室県が、足寄郡4ヶ村のアイヌ18世帯に対し、足寄村への移住を強制。
* 給与地は足寄川沿いにあった。
北海道殖民地区画図 足寄太原野(明治32年(1899年))
[[ファイル:Ainu_map_nakaashoro.png]]
+
* 明治17年(1884年)千島アイヌ91人が当時無人島だった斜古丹(しゃこたん)島に強制移住させられた。
* 明治26年(1893年)教会堂を建立。(移住した千島アイヌはキリスト教徒であった)
* 昭和8年(1933年)島名・村名を斜古丹から色丹(しこたん)に改称。
+
* 明治24年(1891年)、美幌外五ヶ村戸長役場の戸長であった鹿児島県出身の野崎政長が、6ヶ村に散在するアイヌ民族を役場周辺で暮らすよう諭し集住させた。
* 役場周辺のコタンとは別に後に野崎と呼ばれる地区に給与地があった。
* 明治45年(1912年)5月、山火事によりアイヌコタン20戸余りが罹災し給与地に移転している。
* 美幌外五ヶ村戸長役場やコタンは、閉館した美幌ユースホテルのある丘にあった。
* 網尻郡 各村の戸数(明治6年(1873年))
** 美幌(びほろ)4戸22人
** 杵端辺(けねたんべ)2戸6人
** 古梅(ふるうめ)3戸16人
** 活汲(かつくみ)3戸14人
** 達媚(たつこぶ)5戸32人
** 翻木禽(ぽんききん)1戸8人
北海道殖民地区画図 美幌原野(明治38年(1905年))
[[ファイル:Ainu_map_bihoro.png]]
+
* 明治29年(1896年)上置戸に5戸の小屋があったと言い伝えあり。
* この5戸のコタンは常呂(ところ)川と仁居常呂(にいところ)川の合流地点で現在の置戸町勝山(かつやま)市街地周辺と思われる。
* 明治31年(1898年)日高アイヌが置戸に移住するまでの間、置戸に定住者の記録が無い。
+
* 明治32年(1899年)~明治33年(1900年)頃、留萌(るもい)アイヌが滝上(たきのうえ)の元町に移住するまで、滝上に定住者の記録が無い。
* オラシネップの沢(現在の滝上町濁川みどり町の周辺)にも4戸アイヌが住んでいたが、この内の一部が中札久留の盤の沢に移っている。
* 昭和16年(1941年)中札久留は北札久留と南札久留に分割している。
+
